SSブログ

民主党代表選3 トロイカ体制 挙党一致 [マネジメント・人間学]

トロイカ体制とは

1人の指導者に権限を集中せず、3人の指導者で組織を運営する集団指導体制のこと。元々は、ソビエト連邦で、スターリンの死後、権力が一人に集中するのを防ぐために、書記長を廃止して、第一書記、最高会議幹部会議長(国家元首)、首相の3人に権限を分散させたことをさして使われた。名前の由来はロシアの3頭立ての馬橇であるトロイカ。
by wiki

1人の指導者に権限を集中させない体制という趣旨があるようです。権限を集中させたいけれども手を組んで皆で主流派になりましょうということですね。権力奪取の1手段と言えそうです。今回の民主党の代表選で言えば小沢Gが主流派に戻るための1つのテクニックというところでしょうか。

1953年にソ連でスターリンが死去すると、ゲオルギー・マレンコフが党第1書記、首相を兼任し権力を掌握した。しかし集団指導体制を目指すマレンコフは党第1書記をニキータ・フルシチョフに譲った。最高会議幹部会議長にはクリメント・ヴォロシーロフが就任しトロイカ体制が成立する。権限の分散を狙ったマレンコフであったが、党が国家を指導するという共産主義国家では必然的に党第一書記の発言力が強くなった。フルシチョフとの対立の結果マレンコフはわずか2年で首相の座を追われた。後任にはニコライ・ブルガーニンが就いた。フルシチョフは1956年に自身の失脚を画策したマレンコフらに反党グループの烙印を押し逆に完全に失脚させ、実質的なソ連の最高権力者となった。ブルガーニンはこの時フルシチョフ支持を明確にしなかったことが原因で1958年に首相を解任させられる。首相職はフルシチョフが兼任することになり、トロイカ体制は終焉する。1960年にヴォロシーロフの辞任にともないレオニード・ブレジネフが最高会議幹部会議長に就任した。ブレジネフは表向きはフルシチョフに忠実であったが裏では他の政治局員とともにフルシチョフ追放を画策する。ブレジネフは1964年にフルシチョフを失脚させると第一書記に就任、最高会議幹部会議長には長老派のアナスタス・ミコヤンが、首相にはアレクセイ・コスイギンが就任し、トロイカ体制が復活する。しかしフルシチョフに近すぎたミコヤンはブレジネフに疎まれ翌1965年には辞任した。ミコヤン辞任後はニコライ・ポドゴルヌイが最高会議幹部会議長に就任した。ブレジネフは1966年に第一書記という呼称をスターリン時代の書記長に戻す。権力の集中強化に努めたブレジネフは1977年にポドゴルヌイを追い落とし最高会幹部会議議長に就任、書記長と兼務した。ブレジネフの書記長、最高会幹部会議議長の兼任によりトロイカ体制は名実ともに終わりを告げた。
by wiki

トロイカ体制の後はいずれもトロイカの中で権力闘争があり、1人が勝者、2人が敗者という結果になるようです。これを間違えるとマレンコフ氏のように政治的敗者となる。菅首相がトロイカ後、首相になったとたん他2名をはじきだし、世代交代を進めようとしたことは上記の歴史を鑑みると必然だったのかもしれない。参議院選挙で全てはパーになりましたが。
ローマの3頭政治もいづれも同じように1人が勝者、2人が敗者になりました。いつの世も権力闘争は同じですね。

盛田昭夫・竹下登・フルシチョフ―指導者達の素顔

盛田昭夫・竹下登・フルシチョフ―指導者達の素顔

  • 作者: 清宮 龍
  • 出版社/メーカー: 善本社
  • 発売日: 2002/03
  • メディア: 単行本



スターリンからブレジネフまで―ソヴェト現代史 (刀水歴史全書)

スターリンからブレジネフまで―ソヴェト現代史 (刀水歴史全書)

  • 作者: アレク ノーヴ
  • 出版社/メーカー: 刀水書房
  • 発売日: 1998/07
  • メディア: -



2010-08-30 23:12  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:仕事

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証: 下の画像に表示されている文字を入力してください。

 

Facebook コメント

メッセージを送る

このブログの更新情報が届きます

すでにブログをお持ちの方は[こちら]


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。