【2009.6.1】GMの歴史

 自動車は個人の富と自由の象徴だった。GMはそんな消費者の意識に乗じてキャデラックを頂点にビュイック、ポンティアック、シボレーなど、所得水準や社会的な地位に応じた重層的なブランドを展開した。
 70年代後半の石油ショックを契機にして消費者が燃費の良い日本メーカーの小型車に流れ、シェアが初めて80%を割った。すると、ビッグスリーは議会や政権を動かし、日本に米向け輸出の規制を迫った。
 一方でビッグスリーは小型車への転換を拒み、燃費が悪い大型車の生産に固執した。労使交渉で上昇を続けた賃金を販売価格に転嫁しても、大型車の方が利益が大きかったからだ。こうした労組との慣れ合いで膨らんだ年金や医療保険など、巨額の「負の遺産」はGMなどの経営を圧迫し、日本メーカーに比べて品質や価格競争力で劣る原因となった。
 2005年夏の大型ハリケーン「カトリーナ」上陸を契機とする原油価格高騰に伴い、米国市場ではビッグスリーが得意とするSUV(スポーツ用多目的車)から多くの消費者が離反した。そして07年夏に低所得者向け高金利型住宅ローン(サブプライムローン)問題が本格化したことで金融市場が混乱し、ローンに過度に依存した手法が大量の焦げ付きと販売急減を招き、ビッグスリーは奈落の底に突き落とされた。

引用:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090601-00000614-san-bus_all

【2009.5.31】「中流生活」夢と消え、GM一家にあきらめと不安
 フランクさんは1977年、18歳でGMに入社した。「揺りかごから墓場まで面倒を見てくれる全米一の優良企業に思えた」からだ。家族にも働き口を与えてくれ、退職者の医療保険も面倒をみる手厚い福利厚生。GMには「中流家庭の生活を送らせてくれる安心感」があったという。
 「気温が35~38度に達する工場内で、毎日10~12時間働いたよ」
 仕事は楽でなかったが、入社時に時給4ドル75セントだった賃金は右肩上がりで上昇し、08年の年収は約12万5000ドル(約1200万円)だった。
 しかし、従業員への手厚い待遇は海外メーカーとの競争に敗れる原因にもなった。ルイスさんは「80年代に米国進出したトヨタ自動車やホンダ、欧州メーカーにGMは品質で競争できなかった」とも指摘する。
 4月のデトロイト都市圏の失業率は13・6%まで上昇した。全米平均8・9%を大きく上回り、全米の都市圏で最悪の水準だ。フランクさんが勤めた工場の従業員も、最盛期の4000人から09年には500人まで減った。
 ただ、その500人を管理する社員が150人もいた。「会社の経営管理がおかしくなっていた」と感じたという。


GMの言い分

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GMとともに―世界最大企業の経営哲学と成長戦略

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